老いる 死

今日、祖母の通院の付き添いをした。



通院と云っても、もともとの傷ではなく、昨日作った傷なのだが。
なんでも、昨日の夕方に祖母は柿を採っていて、調子に乗って奥の方に手を伸ばしたらこけてしまったらしい。
そして、ブリキの井戸の蓋に両足の脛を当ててしまって大出血をした。

いつもは母が付き添うのだが、今日は母にも用事があり、暇な私が付き添いを買って出た。
八十も半ばを過ぎた祖母は歩くのも辛く、また物忘れもひどくなったそうで、しきりに私に対してすまないと云っていた。

病院に行くと、先生は「なんで治りかけてるのに傷なんか作るんですか!」と呆れた口調で云っていた。
先生曰く、年をとると治りが遅いのだとか。
先生が早口に薬の塗り方を教えていた。
耳が遠くなった祖母の代わりにそれを聴きとり、あとでメモ紙に書いて渡した。
祖母は私のメモ紙を受け取りながら「年はとりたくないわねえ…」とつぶやいていた。


こうした祖母の様子を見ると、老いると云うことを考える。
誰しも年を重ねれば老いて、からだも自由に動かないし、頭もなかなか働かない。
自分も、年を重なればそうなっていくのだろう。
今、と云う大切さを噛み締めなければならない。


父はよく私に云う。
「俺はそんなに長生きする気はない。65歳ぐらいになったら死ぬよ」
父の中では生きることへの執着がないのだろう。
彼は人生を楽しんでいるし、自分のある程度思う通りに生きているようだし。


私などはまだまだやりたいことはあるし、何より現状が思う通りにいかなくてこんな状態で死にたくはないと思っている。
ただ、ときどき思う。
不慮の事故で死んでしまったらどうしよう、と。
考えて、やっぱり死にたくないから用心して生きています。


老いて死ぬのも少し怖いが、今は何もかたちに出来ないままに死ぬのは厭。