家元・立川談志

立川流家元、立川談志師匠が亡くなられた。




この訃報は、帰宅して母と兄から聴いた。
先程までドラマを観てガハガハ笑っていた私は一瞬のうちに凍りついた。
 

「……え?」


しかし、事実らしい。
今ほど、NHKの21時のニュースとインターネットのニュースで確認した。
享年75歳。


私が談志師匠の高座を観たのは一度きり。
昨年博多座であった、『立川談志・生志親子会』。
チケットは自分で獲得したわけではない。
偶然、職場の掲示板に掲示がされてあったのを見て、申し込んだ。
その頃の私は落語熱が再燃した時期で、同じく落語好きの父親と行こうと思って申し込んだ。
社内で落語観ようなどと云う輩はそうはいない。
結果、何の苦もなくゲットしてしまった。
当日、博多座に行ったら席は一階の花道横と云う好位置をゲット。
セレブリティが周りに大勢いる中、庶民の私と父。
しかし、そんなことは始まってしまえば関係ない。


談志師匠は、花道から登場した。
小さな、細い体が私の横を通った。
歓声が凄まじかった。
嗚呼、これが家元・談志か。
圧倒されたまま、私は談志師匠を見た。
談志師匠は掠れた声で辛そうだったが、客席を見渡しながらおしゃべりをしてくれた。
そして、「落語ちゃんちゃかちゃん」を披露。
落語初心者の私は自分の知っている落語を一所懸命数えていた。
時折、談志師匠と目があったような気がした。


「落語ちゃんちゃかちゃん」が終わり、緞帳が下がりかけた。
それを、談志師匠は制止。
せっかくだから…と、「権助提灯」を演じてくださった。
声が思うように出ないのに、それでも権助と、女たちの演じ分けは抜群で。

私はここで“立川談志の芸”を目の当たりにした。



立川談志の芸には、たしかに人間臭さがはっきりとあった。
これが人間の業なのだ、と感じた。
あきらかに他の落語家とは違った。
談志師匠の高座の後、仲入り。
そのとき、父はぽつりと云った。


「嗚呼、これが最後の立川談志だな」


と。
もう博多には来れないだろう、と。
そしてそれは、その通りになってしまったわけだ。


“落語は人間の業の肯定だ”
そう、談志師匠は云ってきた。
私たちに教えてきた。
良くても悪くても、それが人間なんだと。
この言葉は、いったいどれほどの人に影響を与えてきたのだろう。
とりわけ、その言葉に打ち抜かれて、弟子になった立川流の面々。
立川談志になりたくて弟子入りをした。
そして、すぐにそんなことは不可能だと気付き、打ち抜かれ、そしてそこから己と云う個性を作り出さなくてはならなかった面々。
立川談春著『赤めだか』の一節。


真打を目指している人達へ。
もう時間はありません。立川流の落語家である以上、己の真打昇進のイベントを少しでも世に問うものにしたい、と皆思っているでしょう。準備期間を考えれば、一日も早く談志から真打のお墨付きをもらうべきです。立川流のだっていつかは必ず死ぬのです。あと十年生きる保証はどこにもありません。己の晴れの日の口上に、談志が並んでくれない状況を真剣に想像すべきです。談志に認めてくれなくて何のための真打か。何のために今まで頑張ってきたのか。耐えてきたのか。もっと云えば談志亡きあと、誰の責任であなた方を真打ですと世に披露するのか、問うのか。そんな真打になったところで嬉しいのか、意味があるのか、メリットがあるのか。

直弟子、そして孫弟子をたくさん抱えていた談志師匠。
真打、否、二つ目にもなっていない弟子は大勢いる。
談春師の危惧が、とうとう現実のものとなってしまった。


果たして。
落語界はまた動くであろう。
古今亭志ん朝師匠が亡くなった時のように。
少し、不安である。


とにかく、今は衝撃の中にいるけれど。
立川談志師匠のご冥福を祈りたい。


ありがとう、談志師匠。
私は、あなたに間に合ったのでしょうか。
欲を云えば、いえ、去年の私は思ったのです。
「あと一回は、東京にでも行ってあなたの高座を観たい」と。
それも、叶わなくなりました。
残念でなりません。
それでも落語の神様に感謝しようと思います。
あなたの高座を観られて良かった、と。
博多座で、あなたが退場する時の歓声、拍手。
今でも鮮明に覚えています。
そして、あなたの笑顔。
素敵でしたよ。
そんな笑顔で逝ってくれてたらうれしいです。