ある、言葉の話。

またもブログが滞っております。





我ながら情けない。
どうも仕事中パソコンを使用しているので、家に帰ってまでパソコンを開く気にもなれず、またパソコンの部屋が寒くて近付きたくもなく……そんなこんなで滞っている次第です。
面目次第もございません。


さて、言葉の話。
職場が自分を含めてネガティブな言葉であふれていて空気が良くないこともあり、言葉探しを再開しました。
ポジティブな言葉、というよりは力のある言葉を。
努力している人の言葉には力があります。
そんな言葉に触れると、己の心の弱さなり愚かさなりを反省します。
生き方が言葉につながるのだと、改めて思うのです。
私は言葉を発信できる生き方が出来ていないと、つくづく思います。

今日は録画していたNHKの戦後証言・三島由紀夫の回を観ました。
市ヶ谷駐屯地で自決されたことは有名ですが、それに至るまでの心の動きを肉声や他の人の証言によって紐解いていた番組でした。
一人の作家の、日本という国への危機感。
そして自分の生き方への決着を観た思いです。

“一生懸命”と云う言葉があります。
この番組を観て、ふと悟りました。

「懸命って、命を懸けるって書くな。。。」

と。
三島由紀夫の演説の風景を観て、「あ、この人は命を懸けて生きて、そして死んだのだ」と至りました。
途端に今まで軽々しく「一生懸命頑張ります」などと使っていたことを恥ずかしくなりました。
己の一生とはなんぞや、と。
三島由紀夫は問うてみせ、死んだのですね。

現代を生きる私たちは経済大国日本が当たり前になり、ほぼ総中流社会となり、それなりに贅沢をして生きています。
しかし、心の豊かさはどこまであるのでしょう?
主義主張を言葉に出来ず、否、深く考えることもしなくなり、ネット社会の網目の中で顔を埋めて生きている。
私たちが今必要なことは、己の存在を深く考え、その土壌にある日本という国の文化や歴史、そばにいる家族、まわりの人、そして社会を考えることなのではないでしょうか?
安易に世論や出回る情報に踊らされ、同調し、批判していていいのでしょうか?


三島由紀夫と云う男の人生を垣間見て、深く考えた次第です。