集団的自衛権、と云う六文字の為に。。。

空飛ぶ広報室

空飛ぶ広報室




去年の春クールで同名ドラマがあった。
ドラマではただただ綾野剛演じる広報官・空井二尉と新垣結衣演じるテレビマン・稲葉リカの恋模様にキュンキュンしていたのだが、原作本では空井・稲葉両若者の葛藤と成長を感じられる作品となっている。
今、久しぶりに読了したのだが、最後の章『あの日の松島』を読んで考えることがあり、ブログを書くことにする。



『あの日の松島』では、2011年3月11日以降の松島基地で、マスコミである稲葉が見た自衛隊員の姿を描いている。
松島基地で被災した空井は広報よりも救助活動をした。自衛隊員としては当たり前だが、広報としての活動をしなかった。広報活動をしなかったために起きた誤解、それは自衛隊は頑張っている・苦労しているという報道。
空井は自衛隊が頑張っているという報道ではなく、自衛隊の活動が国民の安心につながっているという報道をしてもらいたかったのだ。
しかし広報官である自分が発信していないから誤解されたままになった。そのことへの自分への憤り。
稲葉もまた、そのことに気付けない自分の無力さを感じ、そして報道の何かを感じる。



作者の有川浩はあとがきでこう書いている。

 『あの日の松島』を書くために、松島基地を訪ねました。防衛省航空幕僚監部広報室にも再び訪れました。
 取材の途中で「すみません」と謝りながら涙ぐむ人が何人もいました。 (中略)
 悲しくないわけがなかったろうと思います。大丈夫だったわけがないだろうと思います。彼らが未だにふとした拍子に涙するのは、一番大変なときに一番大変なところへ、私たちの代わりに駆けつけてくれるからです。
 私たちの代わりに被災地に手を差し伸べてくれるからです。
 一番の悲しみの溢れる場所へ赴いて、彼らはその地の悲しみに立ち会うのです。
 しかし、彼らは決して当事者のような顔をしません。立ち会っているだけだから悲しむ資格は自分にはないと自分の涙を詫びるのです。
 一体何という清廉な人たちに私たちは守られているのだろうと思います。
(中略)
自衛隊をモデルに今までいろんな物語を書いてきましたが、今回ほど平時と有事の彼らの落差を思い知らされたことはありません。
 ごく普通の楽しい人たちです。私たちと何ら変わりありません。しかし、有事に対する覚悟があるという一点だけが違います。
 その覚悟に私たちの日常が支えられていることを、ずっと覚えていたいと思います。

今、集団的自衛権が話題となっている。
話題、という言葉は適切ではない。何故なら私の周りではほとんど話題に挙がらないからだ。
家族では話題にし、議論もしている。しかし職場では話題が挙がらない。
話題に挙げられないような状況にしているのは何か。
私は単純に、差し迫った話ではないと多くの国民が思っているからだと感じる。
その無関心な状況で自民党集団的自衛権を行使出来るように動いている、そしてそれを野放しにしている国民は本当に馬鹿者ばかりになってきたな……これは私見であるが。

上記の清廉な、有事に対する覚悟がある人たちが、ちょっとした私たちの無関心で危ない目に遭わせていいのだろうか?
彼らはいざというときがないように訓練している。決して人殺しをするために訓練しているわけではない。
私たちは69年前の八月まで戦争をしていた。そこで多くの命が散って逝った。
もう戦争はしたくないと誰もが思ったはずだ。子供の代、孫の代まで日本と云う国を平穏に残したいと思ったはずだ。
だから戦争を放棄した。やりたくないって云ったんだ。私たちは。

集団的自衛権がどうとか云っているのではない。単純明快に戦争したくない、それだけなのだ。
外交の問題や領土の問題があるのもわかる。しかし、外交や領土の問題が発展して第二次世界大戦が起こっただろう?同じことをまた繰り返すのか?
歴史とは、再び同じ過ちを起こさないために学ぶものではなかっただろうか。

政治家は忘れていないか?“一番大変なときに一番大変なところへ、私たちの代わりに駆けつけてくれる”のはあなたたちではないことを。
今、黒田官兵衛大河ドラマで放映されているが、彼ら戦国武将は戦場に赴いていた。しかし、あなたたち政治家は絶対戦場になど訪れるわけがない。安穏と安全な場所に居てあーだこーだ云っているに違いない。

自衛権が欲しい人たちは、武力をもたないと交渉事が進まないと云う人間たちは、自分たちが率先して戦場にでも行けばいい。
あなたたちは決して、覚悟をもって私たちの日常を支えてくれるわけではないと私たちは知っている。
そして、この問題に無関心でいるひとたちも同様だ。



私たちは、私たちの無関心と云う罪でもって私たちの日常を守ってくれる人たちを殺していいのでだろうか?